後輩のにゃーこが、渋谷のビル8階の企業内保育で働いていた頃の話。

給食の時間だった。隣のクラスの先生が、ひとりの男の子に怒鳴り続けていた。「早く食べなさい!」「なんでこぼすの!」——声のトーンが、明らかにおかしかった。怒鳴るというより、感情を爆発させていた。

🐱 にゃーこ
「その場にいたんです。でも、止められなくて。『あとでちょっと声かけようかな』って思っているうちに、時間が過ぎちゃって。帰り道、ずっと気持ちが重かった」

あのとき、にゃーこは何をすべきだったのか。——今、この問いに答えられる制度が、日本にある。

2025年に施行された改正児童福祉法で、「不適切保育の通報義務」が明確化された。「見て見ぬふり」は、もう選択肢にない。この記事では、制度の中身と、実際に現場で動くときの手順を整理していく。


そもそも「不適切保育」って何?——制度的な定義を確認する

「不適切保育」という言葉、現場でなんとなく使っているけれど、正確に定義を言える人は少ない。

厚生労働省は、不適切保育を5つの類型で定義している。

1. 子どもの人格を否定する言動
「だからお前はダメなんだ」「〇〇ちゃんのせいで全員が困ってる」といった、子どもの存在を傷つける言葉。

2. 不適切な身体的関わり
乱暴な扱い、強制的な体勢保持、必要以上の力を伴う介助など。

3. 威圧的・脅迫的な言動
「言うことを聞かないと置いていく」「先生はもう知らない」など、恐怖で従わせる言動。

4. 子どもを無視する・特定の子どもを排除する行為
特定の子どもだけ活動に参加させない、声かけをしない、などの対応。

5. 保育所等での食事に関する不適切な行為
嫌いな食べ物を無理矢理食べさせる、正座・壁向きなどの罰的対応。

👩‍🏫 先生
「虐待との線引きもここで押さえとこか。虐待は犯罪として扱われる行為。不適切保育はそこまで至ってへんけど、放置したら虐待に発展する可能性があるもの、という位置づけなんよ」

つまり、不適切保育は「虐待の一歩手前」。だから早期発見・早期対応が重要になる。


2025年施行——何がどう変わったか

改正児童福祉法が2025年に施行され、保育施設における不適切な保育の通報義務が法律上明確化された。

変わった点は3つある。

1. 通報義務の明確化
これまでは「気になったら相談する」程度の運用だった。改正後は、不適切な保育を発見した場合に、施設長や関係機関への報告が義務として位置づけられた。「知っていたけど言わなかった」では済まなくなる。

2. 施設側の対応義務
通報を受けた施設側も、事実確認・再発防止策の策定・行政への報告を行う義務を負う。「内部でなんとかした」「口頭で注意した」だけでは不十分になった。

3. 外部通報ルートの整備
施設に言えない場合の「外部通報窓口」が自治体ごとに整備された。内部告発的な通報がしやすくなった。

「義務化」という言葉に身構える人もいると思う。でも、本質はシンプルだ。「見た人が声を上げる仕組みを作る」、それだけ。


現場で「見た」ときの判断基準——グレーゾーンをどう判断するか

「これって不適切保育なのかな……」という迷いが生まれるのが、現場のリアルだ。

にゃーこも前職で、まさにこの迷いの中にいた。

🐱 にゃーこ
「最初は『都心の保育園ってこんな感じなんだ』くらいに思ってたんです。でも2ヶ月で違和感が出てきて。強い言い方をする先輩がいて、子どもがその先生の前でだけ固まってた。でも、方針のない園だったから、誰に相談すればいいかわからなくて。言葉にできずに流しちゃった」

グレーゾーンを「気のせいかも」と処理し続けると、気づいたときには虐待になっている。

判断のための3つの問いを使う。

問い1:繰り返しているか、単発か?
一度の感情的な言葉と、毎日繰り返す言動は、重さが全然違う。繰り返しているなら、明らかに動くべきだ。

問い2:子どもがどう反応しているか?
特定の保育士を見ると固まる子ども、その先生が来ると泣き出す子ども——子どもの反応は正直だ。行動の変化があれば、それは「サイン」として受け取る。

問い3:自分が保護者だったら、知りたいと思うか?
「我が子に同じことをされていたら」と想像してみる。知りたいと思うなら、それは黙っていい話じゃない。

「気のせいかも」が危ない理由がある。不適切保育は、慣れていくと「当たり前」になる。最初は「ちょっと強い言い方かな」だったものが、半年後には「まあこういう先生だから」になる。麻痺が起きていくんよ。

だから、最初の違和感を「気のせい」で流さない。それが最大の防衛ラインだと思う。


実際に通報するとき——手順と選択肢

「動こう」と決めたとき、どうすればいいか。

手順1:記録を残す

まず、見た事実を記録する。「いつ・どこで・誰が・何をしたか」を具体的に。感情は入れない、事実だけ書く。日時と状況だけでいい。

記録は、自分を守る証拠にもなる。

手順2:園内ルートを使う

まず、施設長や主任に報告するのが基本ルートだ。施設長が対象者なら、法人本部へ。

「言いにくい」という気持ちはわかる。わかる、ほんまに。クマオが前職にいたとき、まさにその壁にぶつかっていた。

🐻 クマオ
「片道2時間通勤で、23時帰宅。持ち帰り仕事もあって、みんな疲弊してた。同僚が子どもに感情的になってる場面を何度か見たけど、通報を考えても声を上げられなかったんです。男性保育士って、もともと職場で孤立しやすくて。『お前が言うのか』って空気を、勝手に感じてしまってた」

でも、「見たこと」を報告するだけでいい。「この保育士がどうだ」という評価をする必要はない。「〇月〇日、○時ごろ、〇〇クラスで、〇〇先生が子どもに向かってこういう言葉を言っていました」——それだけ伝えれば、施設側が対応する義務を負う。

手順3:外部ルートを使う

園内で言えない状況なら、外部通報窓口がある。

  • 自治体の保育課・子育て支援課:保育所への指導権限を持つ
  • 児童相談所:虐待が疑われる場合
  • 都道府県の保育担当部署:施設全体の問題の場合

2025年の改正で、各自治体に通報窓口が整備された。自分の市区町村のウェブサイトで「不適切保育 通報 窓口」で検索すれば出てくる。

通報後の身の守り方

通報者が特定されないよう、制度上は匿名での相談も可能だ。ただし、実名の方が調査がスムーズになる。

「報復が怖い」という不安は理解できる。でも、通報によって不利益な扱いを受けた場合は、それ自体が違法行為になる。記録を残しておくことが重要だ。


「見て見ぬふり」ができなくなる——制度化の本当の意味

「義務化になって、保育士が管理される側になった」という見方をする人もいる。

でも、逆の見方もある。

この制度は、保育士を守るものでもある。

これまで、「見た」のに報告しなかったことで、後から責任を問われるケースがあった。制度として通報ルートが明確になったことで、「見た人が動く仕組み」が作られた。動いた人を守る仕組みも、同時に整備されている。

不適切保育が起きやすい職場には、共通の特徴がある。

  • 慢性的な人手不足で余裕がない
  • 先輩の言動が絶対で、疑問を口にできない空気がある
  • 「これが保育だ」という誤った慣習が根づいている
  • 保育士同士が孤立していて、互いに見えていない

🐻 クマオ
「前職、全部当てはまってました。特に『孤立』ですね。みんな疲れすぎてて、お互いの保育を見る余裕がなかった。今の園は職住近接で自転車15分。それだけで、同僚と話す余裕ができたんです」

こうした職場は、制度が整っても変わりにくい。「そういう職場にいる」と気づいたとき、それ自体を問題として捉える視点が必要だと思う。


自分が「不適切な対応をしてしまった」と気づいたとき

逆のケースも正直に書く。

「あのとき、私は子どもに対して不適切な言い方をしたかもしれない」と感じたことがある保育士は、決して少なくない。

余裕がないとき、疲れ切っているとき、人は出したくない感情を出してしまう。

重要なのは、気づいたあとにどうするか、だ。

1. 自分の言動を正直に振り返る
「感情的だったか」「子どもを傷つけなかったか」を、できるだけ客観的に。

2. 主任や信頼できる先輩に自己開示する
「昨日、こういう対応をしてしまって、気になっています」と報告できる環境は、健全な職場の証拠だ。自己開示できる職場は、不適切保育が連鎖しにくい。

3. なぜそうなったかの構造を見る
個人の問題ではなく、「なぜそうなる状況があるのか」を問い直す。疲弊しているなら、それは環境の問題。

自分がしんどい状態にあると感じたら、その職場環境そのものを見直すタイミングかもしれない。「保育士に向いてないかも」と感じているなら、この記事を読んでほしい。環境の問題なのか、適性の問題なのかを整理する助けになる。


まとめ——「見た」ときに動ける保育士でいるために

不適切保育の通報義務化は、保育現場を「管理する」ための制度ではない。

「気づいた人が動ける仕組み」を、法律で作ったということ。

もう一度、整理する。

  • 不適切保育は厚労省の5類型で定義されている
  • 2025年の改正で、通報は義務として明確化された
  • 判断に迷ったら「繰り返しか」「子どもの反応は」「保護者なら知りたいか」の3問を使う
  • 動くときは記録→園内報告→必要なら外部通報の順
  • 通報者を守る仕組みも同時に整備されている

あの給食の時間に戻れるなら、にゃーこは隣のクラスの先生に声をかけると言っていた。「さっきの言い方、少し気になりました」と。

制度がどうであれ、声を上げることができる保育士でいたい。それが、子どもを守る最初の一歩やから。